ウォンバットのうきうきくらし手帖

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もう『ふつう』のフリはしないと決めた



こんにちわ。水野アキです。

ここ3ヶ月のわたし

2017年に入ってから自分の中の常識を見直すような出来事がいくつか起きて、それにともなって自分自身を見つめ直す機会が何度かありました。

常識を見直し、自分自身を見つめ直すということは、それまでの自分を無に帰すことなのかなー、とビクビクしていましたが何ていうことはない。自分自身をまるごと受け入れるということでした。

まるごと受け入れるということは、受け入れ難い自分を認めるという事でもあり、ある意味ではそれまでの自分を受け入れられなかった「今」の自分を亡くすことに繋がるかもしれません。

なので、その作業自体は易しいものではなかったですが、今では自分のまわりにうっすらとあった薄い膜が無くなったような気分です。

 晴れた栃木の空 写真

 『ふつう』のフリをするこということ

普通って何?

みなさんにとって『普通』とはどういったものでしょうか?
わたしにとって『ふつう』とは世間の常識からはずれていないこと、親の期待に応えることこそが「私はふつうの人間です」と言えることだと思っていました。

なぜそこまで『ふつう』にこだわっていたのかというと、「自分は普通でない体験をしている普通の人間である」と思っていたからなんですね。

特技も何もない普通の人間なのに普通でない体験をしてしまったので、『普通』に軌道修正しなければ普通でなくなってしまう。普通ではない部分を少しでも無くさないと親からはもちろん、他人からも愛されないかもしれない、そんな事を考えていました。

じたばたしていたあの頃

20代のころは自分の中にそんな感情があることに無自覚でしたが、20代終わりくらいの頃に人間関係で深く傷つく出来事があったり、30代になってからも数回、人間関係において心を閉ざしたくなるような出来事があって、これは自分自身の中に何かあるのでは?とうっすらとその感情に気がつき始めました。

(その間、断捨理すれば自分の感情に整理がつくかも、とかミニマリストになれば思考の取捨選択が出来るようになるかも?とかで断捨理にチャレンジしたりしていました)

ようやく行きついた結論"ふつうの人なんていない"

常識は親のしつけやコミュニティによって身についた知識や価値観であり、個性とは別物であるということがやっとわかりました。

普通になりたかったわたしは普通であるフリをしていただけにすぎず、『ふつう』にこだわるあまり、個性を消そうとしていたのです。

個性を消したかったから、周りの人から「変わっている」と言われることに対して嫌な感情しか持てなかったし、個性を消したかったから没個性的なファッションをしてみたりした。

でもこころの中では消したくないので中途半端に個性を漏らしてしまう。自分の個性に惹かれてくれた人を信頼できない。

なんだかもったいないことをしてきたなぁという気持ちでいっぱいです。

自分にも他人にもやさしくないよね。

そんなこんなで

自分は普通の人間ではないし、普通でなくても良い。

むしろ普通の人なんて居ないんだから、その違いを認められる事こそが自分自身をより豊かにしてゆくことなのではないかと思うのです。

 

ということでもう普通である必要の無いわたしはひとつ身軽になりました。スッキリ。

おつきあいくださり、ありがとうございます。 

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◆この記事は水野アキが書いてます